日本は、大きな転換期である明治維新の後、欧米諸国と肩を並べるため、西洋文化を日常に取り込もうという政府の方針から、ありとあらゆるものに近代化=西洋化の嵐が吹き荒れました。
ガス燈に灯りが灯り、鉄道が開通し、鹿鳴館で舞踏会が開かれ、油絵で鮭が描かれ、等々。国力増強を旗印に、怒涛の勢いで起こる身の回りの変化に人々が右往左往した時代です。
この社会生活に直結する改革のなかには、当然、暦法の改革も含まれていました。現代の生活では太陽暦が使われていますが、江戸時代以前の日本では太陰太陽暦、いわゆる旧暦が使われていました。太陽暦を採用している諸外国とのやり取りが頻繁になると、暦法の相違による不便さを実感し、早期の改暦が必要になっていました。
また、何よりも改暦が必要だった理由は、明治政府の財政問題です。改暦が行われた明治6年は、旧暦の閏年に当たり、一年が13ヶ月になる年でした。(月の動きと二十四節季を土台にした旧暦では、実際の太陽年とのずれを補うため、19年に7回、一年が13ヶ月になる閏年が設けられていました。)
政府は、明治5年11月9日に改暦の詔書を発布し、太陽暦への改暦を断行します。旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日としたことで、その年の1年間に支払う給与を12ヶ月分に抑え、明治5年の12月は2日しかなかったことから、給与支給はなしとし、結果的に2ヶ月分の給与を節約することができました。
この改暦により、よりによって正月がひと月早くやってくることになり、一般庶民は大混乱でした。慣例により、10月に翌年の暦が頒布されていたこともあり、改暦後に太陽暦の説明書などが多く出版されましたが、全ての行事が旧暦に則って行われていたこともあり、新暦が根付くには相当な時間を要しました。
現代でも「旧正月」や「旧盆」が名残としてあり、出雲大社の神在祭など、旧暦の日付に従って神事などが行われていることも多くみられます。
暦の変遷を、日本の伝統文化の流れの一つとして、次世代に伝えていきたいものです。